はじめまして、中園(なかぞの)と申します。
私は周りからは「いつも楽しそう」「おしゃべりで面白い」「やかましい、騒がしい(笑)」と言われることがよくあります。
でも本当はかなりの人見知りで小心者。
緊張しいで引きこもるのが大好きだというところも、これが本来の私だと正直に受け入れています。
今では周囲が抱く「明るい私」と、自分に正直な「小心者の私」はどちらも大切にして、自分なりに折り合いをつけて生きています。
ですが、ここに辿り着くまでには、さまざまなことを経験してきました。
最近話題になっているヤングケアラー、コミュ障、引きこもり、履修できなかった反抗期などなど。
人生という名の上り坂はきつくて、暗くて前も見えなくて、周りに邪魔されてしんどくて、もういやになる時もありました。
「止まってはいけない、進まないとすべてが終わってしまう」
そこまで追い詰められて、でも実はもう、一歩も動けないほど疲弊していることにすら気づかなくて、地べたに這いつくばっていました。
そんな中、私を助けてくれる方が数は少ないですが、確実に居ました。
その方たちのおかげで今は人生を楽しく感じることができて、いつも笑っていられるようになりました。
同じように人生の上り坂でしんどい思いをしている方が、ちょっとだけでも立ち止まれるような、ちょっとだけでも笑顔になれるように、いつか手を差し伸べてくださった方たちのように、自分に何か出来ることはないかとずっと考えてきました。
その答えのひとつとして、この「心会話(こころかいわ)」という場所を用意しました。
ここは、一旦立ち止まって、一緒に悩みを紐といて、選択肢を一緒に探して、すこしでもあなたに合った方法で一歩を踏み出す練習をする場所、自分と向き合う場所です。
まずは肩の力を抜いて、気楽にお話ししませんか?
【大切なお知らせ】安全のためにご一読ください
もう少し私のことを知りたいというマニアックな方向けに
この先に、私のこれまでの経験を少し詳しく書き記しています。
もし興味がおありでしたら、ご自身の判断で読むかどうかをお決めください。
中には、精神的にお疲れの方や繊細で敏感な方にとっては、刺激が強く感じられる内容(過去の苦労や出来事)も含まれています。
読むことでお気持ちが沈んでしまいそうな時は、無理に読み進めず、ここより先はスルーしていただいて構いません。
私という人間を知っていただくためのものですが、何よりも「今のあなたの心の安全」を一番大切になさってくださいね。
幼少期編
【第1章:小さな保護者だった頃】
障害を持つ兄弟に挟まれ、私の人生は始まりました。
物心ついた時から、家の中での役割は家族の顔色を伺う「緩衝役」、兄弟の「通訳」「保護者役」でした。
何をするにも兄弟が優先、自分のことは後回しにして家族のお世話をする。
それが私が存在するための役割でした。
「人って、こんなに温かいんだ……」
忘れられない記憶があります。
小学1年生の時、泣いている私を担任の先生が抱っこしてくれた瞬間、そのやわらかさと体温に心底驚きました。
親に抱っこされた記憶がなかった私は、この時初めて「人の温もり」を知りました。
この時に感じた衝撃的な「寂しさ」と、初めて触れた「人の温もり」。
何と表現したらいいのか分からず先生に「ありがとう」が言えなかったのはまだ幼かったからでしょうか…
今でも先生のことを思い出しては、「あの時はありがとうございました!」と大変感謝しております。
子どもなのに兄弟の「保護者」として動かなければならなかった幼少期は、慌ただしくて記憶が曖昧でしたが、この温もりは「強烈な記憶」として私の中に残っています。
そして、人との温もりを知ったことで感じた「寂しさ」が受け入れられず、家族であっても相手の体温を感じること(手をつなぐ、頭をなでるなど)を拒絶するようになったのはこの頃からでした。
思春期編
【第2章:思春期の私に課せられた「現実」】
私には「反抗期」がありませんでした。
自分の感情を出すより、家の中の不穏な空気を察して場を収めることが日常だったからです。
上手く伝えられない兄弟の感情を代弁する「通訳」として頑張れば頑張るほど、自分の感情は置き去りに。
「思春期、我慢を超えると諦めに進化する」
そんな多感な時期に大人たちに言われた言葉を今でも忘れません。
「あなたしかいないんだから、これからは親のことも支えていくのよ」という言葉。
それは、まだ子供でもある私にはあまりに厳しい現実でした。
これまでの「我慢」に加え、これからは親のことも、家族を私が一人で背負うのです。
先が見えなくて、どうなるかわからないというあやふやで大きな不安。
私はついに、考えることも、我慢することもあきらめました。
そんな私を繋ぎ止めてくれたのは、遠方に住む伯父の言葉でした。
「まだ子どもなんだから、困ったら大人に頼りなさい。任せなさい。」
周りが「役割」を押し付ける中、伯父だけが、私がまだ子供だという、もう一つの現実を思い出させてくれたのです。
当時の私の将来の夢は・・・適当に「お花屋さん」と答えていました。
進路は・・・家から近いところに通う、就職一択。
しかし、現実は本当に厳しくて、「受験失敗」「不景気で就職難」という最悪な状態でした。
ちなみに、私の受験は一切心配されず「模試では90%以上で合格という判定が出ていたので安心」と家族も周囲も思っていたそうです。
しかし、受験当日、体調を崩していたためボロボロな状態で受験。
なんども試験官の先生に心配されるほど。
結果ももちろんボロボロで不合格。
塾の講師も学校の先生も家族も「なんで??」の一言でした。
私からしたら予想通りの結果でしたが、家族がいないところで泣き崩れました。
その後、滑り止めの「私立」へ進学したのですが、この失敗を家族はしつこく追求してくるのです。
家から遠い私立への交通費や学費が高いということなど、気に食わなかったのでしょう。
「公立落ちて私立なんて、お金かかりすぎ!!ありえない!」と。
(私立は奨学金をもらいながら通い、もちろん働きながら自身で全額返還しましたが、家族はずっと事あるごとに言います。)
この頃は、伯父の言葉を時々思い出しては踏みとどまるという状態でした。
社会人編
【第3章:家族を作る「極秘作戦」と、怒りの救急搬送】
20代、給料の9割を家に入れながら奨学金を返す日々。
就職難の中、なんとか見つけた会社では目標も無く、家にお金を入れるためだけに仕事と家の往復で終わる毎日に違和感を覚え、転職を決意。
もちろん、人間関係の構築がまともに出来ない私は嫌われていると実感していました。
そのため、これ以上その会社に居たくないという思いもありました。
そして、大手コールセンターの正社員募集にダメもとで応募したらまさかの合格をいただいたのです。
面接官の暖かい言葉にいままでの頑張りを救われたような、自分を認めてもらえたような嬉しさがあり、面接が終わってこっそり泣いてしまいました。
そして暖かい同僚たちや、なんだかんだと話しかけてくる上司。
給与も以前の会社に比べたら格段と上がりましたが、9割を家に入れるのは変わらず。
よく分からないストレスで吐きながら働き、「家族に対して愛情が無くなってきた」とつぶやく私に、当時新婚だった上司が言った「自分で作る家庭は別物だよ」という言葉。
「自分で作る?」この言葉が私の中には無かった発想だったのだと気づきました。
それが私の人生を変えるスイッチになりました。
私はいつも自分の選択を家族という一番近い人間から否定され続けてきました。
服を選べば「似合わない」「こっちがあなたらしい」
化粧をすれば「おかしい」「化粧なんてする必要ない」
友人や恋人を紹介すると「センスない」「あんな人たちあなたには合わない」
髪を切ると「長い方が絶対いい」「もったいない」「次は伸ばして」
振り返るとすごい言葉だなと感じます。
「素晴らしい自分の人生を想像(創造)する」
早速、自分の家族を作ると決意し、手元のわずかなお金を握りしめ、家族に内緒で結婚相談所へ。
いつも私の選択を否定する家族には知られたくなかったのです。
また、人間関係の構築が苦手だった私にとって、家族に内緒で相手を探す方法は専門家のいる結婚相談所に行くことしか思いつかなかったのです(笑)
そこで、運よく障害のある兄弟のことも含めた「正直な私」を理解してくれる、心優しいパートナーである今の夫を「ゲット」しました。
その後は働きすぎだと感じ、中小企業に転職。
時間にも心にも余裕が戻りました。
しかしこのタイミングで結婚へ動き出した矢先、兄弟の精神状態が悪化。
兄弟の世話と家族の緩衝役としての生活を送りながら、自分の将来はどうなるのだろうと考える日々。
自分の描いた理想と現実の板挟みとなった私はとうとう倒れてしまい、救急搬送されることになりました。
そして救急搬送までされた体調が悪い私に向かって、当の兄弟が放った言葉。
「精神疾患の自分の言うことなんて、気にしなきゃいいのに〜あなたは気にしすぎ」
その瞬間、私の中に猛烈な「怒り」が湧き上がりました。
「いま言うか!?原因だってわかってるならその口を今すぐ閉じろ!そして動けない今の私に感謝しろよ!この怒りを表に出さないおかげで、お前は今も無事なんだからな!」
心の中でそう叫んだ時に、「自分が家族を支えなければならない」という私の「現実」と「思い込み」は、怒りとともに完全に焼き尽くされたのでした。
これが、私が初めて感じた「怒り」という感情です。
そして自分の人生を徹底的に守り抜く覚悟を決めた、最大の転換点です。
結婚・自立編
【第4章:自分の人生を守るための「自立」と、手に入れた平穏】
なんとか体調を回復させて結婚にこぎ着けた私はついに「自分の人生・私の作る家族」の土台を手に入れました。
私が居なくなった実家では、残った親と兄弟がぶつかり合っていましたが、今の私にはもう彼らを背負う義理はありません。
時折届く家族からの愚痴に、私はあえてこう言いました。
「そんなに嫌なら、家を出たら?あなたも大人なのだから。」
障害を持った人でも部屋を借りることができる制度を調べて教えるところまでは手伝いました。
そして、私に依存しきっていた家族がついにそれぞれ別々に暮らし始めました。
子供の収入をあてにしていた親も、自分で責任を取るという大変さを知らなかった兄弟も、初めて「自分の人生の責任」に直面したのです。
「自分の気持ちを守るために選んだ支援へ繋ぐけじめ」
もちろん、私は鬼ではありません。
家を建てる時には、親の介護も視野に入れて部屋の配置を考えました。
しかし断ったのは親の方で「田舎には住めない」的な言葉でした。
そうです、実家がある都会とは比べ物にならないほど田舎です。
でも私たち夫婦が選んだ土地ですし、静かで素敵な街ですから、そんな風に言われるのはつらかったです。
「もういいかな?親兄弟から完全に手を放そう」
燃え尽きた中から、なけなしの優しさをかき集め、彼らを自治体の自立支援センターへと繋ぎました。
家族をプロ(行政)へ委ね、私は私の家庭と人生を守ることを選んだのです。
自立支援センターへ繋ぐことは私の最後の家族への「献身」という訳ではありません。
私が「見捨てた」という感情を抱くことが無いように、自分自身が納得したいがために取った行動なのです。
そうして私は、ようやく「家族の世話役・保護者役」ではない、一人の人間としての平穏を手に入れたのです。
この経験があるからこそ、私は今、同じように「役割」に縛られ、身動きが取れなくなっている方の心に寄り添い、「他にも選択肢があるかもしれない」と一緒に未来を探すお手伝いができるのだと信じています。
追記:親の介護も視野に入れて配置した部屋は今は愛猫の部屋として、しっかりと活用されておりますので無駄にはなりませんでした。
結婚後の試練編
【第5章:今度は、大切な人を守り抜く。夫の闘病と怒涛の育児】
ようやく手に入れたはずの平穏。
しかし、人生はまたもや私に試練を投げつけました。
出産を2ヶ月後に控えたそのタイミングで、今度は夫が倒れたのです。
「タイミングって重なるときもあるけど…と思う日々」
雪の降る寒い季節。
一人では歩けなくなった夫を肩に担ぎ、電車を乗り継いで病院へ通う日々。
ふとした瞬間に線路へ飛び込んでしまわないか……
その不安を打ち消すように、私は夫の腕を強く掴み、あえて明るく、楽しい話を続けて気を紛らわせました。
出産直前まで続いた悪阻と片頭痛もひどく、しかもお互いの実家も頼れないという、笑ってしまうほどの絶望的なタイミング。
「私、すごすぎない?」と、どこか他人事のように感心しながら、おでこに冷えピタを貼って猛烈な頭痛と吐き気と戦いながら、夫を支えて病院へ通いました。
夫はいつも私の味方です。
私がどんなに甘えても、わがままを言っても怒らず、駄目なことは諭し、気持ちに余裕がない時も、私と一緒に人生を楽しんでくれる人です。
引きこもりで小心者でやかましい私ですが、この頃は本当にどうにか動かないと「危ない」と感じました。
普段は元気な夫が朝起きれなくなり、立ち上がるのもやっとの状態。
病院への道のりが遠くて、お腹も重たいし夫も重たいし、頭痛いし、吐き気もするし、でも手を離すと危険だと私の頭の中で警鐘が鳴り響いていました。
何とか復活した夫には伝えていませんが、私はこの時期、一切泣きませんでした。
弱り切っている夫に泣き顔は見せてはいけないと、これ以上心配をかけてはいけないと感じたのです。
ちなみに出産時に感動して泣きそうだったのですが、担当医師から「お父さんにそっくり!!」と言われて見てみると、生まれたての赤ん坊は本当に夫にそっくりだったので涙は出ずに笑ってしまいました。
しかし、無事に出産したのも束の間、体調が復活した夫に癌が発覚。
今度は生まれたばかりの我が子を抱えながら、手術と治療に付き添う日々。
この頃はなりふり構わず、両実家を頼り走り回っていました。
当時の記憶が曖昧になるほどの忙しさの中、ずっと心にあったのはただ一つ。
「生きていてほしい!」
その一心でなんとか駆け抜けました。
ようやく夫が回復し、平穏が戻るかと思いきや……今度は「育児」という名の未知なる世界が幕を開けたのです。
育児編
【第6章:こだわり抜く我が子と、一人では無理だと諦めた「早期療育」】
夫の闘病を乗り越えた先に待っていたのは、驚くほど「個性が強すぎる」我が子との日々でした。
子育ては一筋縄ではいかない日々。
オムツの質にこだわり抜く。
いかにお肌に優しい素材が大切かを泣いて知らせるわが子のサインを分析。
結果、布おむつを愛用し、おまるを自在に乗りこなすスキルを早期に習得したわが子。
離乳食に至っては、メニューと産地を読み上げ、目の前で調理する工程を見せなければ口にしてくれません。
「こちらは〇〇県産の新米を、お鍋でじっくり煮たおかゆです」
「これはリンゴという果物です。切る前はこんなに赤いけれど、中は白いんですよ」
言葉なんてまだ分からないはずなのに、毎日、毎食メニューの読み上げと作り方を丁寧に説明をしました。
すると魔法にかかったように楽しそうに食べてくれるのです。
大人が見過ごすような小さな変化を一緒に驚き、楽しむ。
普通の食材が高級食材に聞こえるマジックに、私自身も救われていました。
成長とともに体力も爆発。
わが子は歩くことさえもどかしいのか、高速ハイハイで逃げ回り、つかまり立ちからいきなりダッシュを始め、ベビーカーは「遅い!」と拒否。
抱っこでの猛スピード移動or手つなぎダッシュを要求される毎日。
(どちらを選んでも私が走ることに変わりなく…)
「誰に似たのかこの独特な個性……私一人では無理。先生、ヘルプ!!」
せっかちな私はすぐに専門家へ相談し、早期療育へと繋げました。
人付き合いが苦手で友人関係も希薄な私ですから、どこに相談したらいいのか分からず…
手あたり次第というわけにもいかず、緊張しながら勇気を振り絞って自治体に相談することに。
実家の家族を自治体に繋いだ時と同じように、適切なプロの助けを借りる。
それが、私にとっても子供にとっても「安全」な道だと思ったからです。
あの頃の「せっかち」でこだわりが強かった赤ちゃんは、周囲の助けもあって、今では驚くほど頼りになる素敵な存在へと成長しました。
成長するのは子供だけ?
いいえそんなことはありません、大人である私も心身ともに少しだけ成長できたように感じます。
今でも毎日、家族と向き合う大変さを身に染みて実感しているからこそ、もし一人でノイローゼになりそうな不安の中にいる人がいたら、「私に話して、少しでも心が軽くなってほしい」と、ぼんやり考え始めました。
相談する窓口を探すのも、そこに行くのも、悩みを説明するのも、それだけで気が遠くなるほどのエネルギーが必要です。
でも、それ以上に怖かったのは「このままでは倒れてしまうかも」という自分の限界を見極める難しさでした。
これまでは「助けてもらうばかり」だったけれど、そろそろ「だれかの役に立ちたい自分」が登場してもいいんじゃないかな?
そんな、新しい自分へのワクワクするような変化が訪れた瞬間でした。
辿り着いた先
【最終章:自分を磨き上げ、辿り着いた「心会話」】
「在宅という選択肢」
子供との対話から選んだ「在宅ワーク」という道。
外で働いてほしくない子供の願いと、働きたい私の気持ちを「在宅」という折衷案で解決したのです。
そしてこの選択が、私の眠っていた才能を呼び覚ましました。
「初めてだけど挑戦してみようかな」
選んだのは、かつての私なら避けていたであろう「営業」の世界でした。
もともと話すのが下手な私は、緊張し過ぎて指が震えてまともに声も出ないこともありました。
でも、在宅という素晴らしい(引きこもり)環境を活かし、徹底的に「声出し練習(独り言)」や「イメトレ(妄想)」を繰り返しました。
また、相手の反応をあらゆる角度からシミュレーションし、徹底的に対話を分析する。
そうして自分らしい会話スキルを一つひとつ積み上げていきました。
クライアントと伴走し共に成果を作り上げていく中で、その積み重ねが着実に自分の力になっていることを実感しました。
そんな自分を周囲に認めてもらえたことが、何よりの喜びでした。
こうした「きっかけ」を掴めたのは、支えてくれる方たちに恵まれたことも、私にとって大きなことでした。
この確かな手応えが自信となり、「これからの人生をどう歩んでいきたいか」をもう一度、自分に問い直すきっかけになったのです。
「無駄なことではなかった!!報われた過去」
そこで驚いたのは、自分のメンタル維持のために学んだ「心理学」が、会話がメインの現場で無意識に活かされていたことです。
専門用語などは頭から消えていたけれど、心の片隅に感覚として残っていたこの学びが、これまでの経験と合わさることで、自然と会話の中で使えていました。
それはまるで、バラバラだったパズルのピースがピタッとはまったような、絡まった紐がスルスルとほどけたような、驚くほどすっきりとした感覚でした。
ここまで来るのに、しんどいこともたくさんありました。
かつて、自分の置かれた現実がつらすぎて、考えるのを諦めてしまったこと。
わが子の細かいこだわりに、なんとかしようと徹底的に付き合ったこと。
そして、自分自身と向き合うということが、一人では難しくて孤独だと身をもって知りました。
諦めの境地に至ると、自然と「自分以外は家族も他人と同じだ」と考えはじめ、人間関係では距離を置くようになり、相手に対して何も感じない冷たくて極端な考えをもった自分が出来上がっていました。
そんな自分を恥ずかしいと感じて、外では違う顔をもっていました。
この冷たくて極端な私を「正直な自分」だと受け入れられたのは、何があっても私を理解し支えてくれる夫がいたからです。
私の話しを隣で「否定せずに聞いてくれる」それだけで、それまでの冷たい考え方は、「自分とは違う人間だから、違って当たり前」という、前向きな捉え方へと変わっていきました。
共感でもアドバイスでもなくて、ただ否定せずに聞いてくれる人がいることが、どれほど心強いか。
私を支えてくれた方たちへの感謝を、今度は同じように悩んでいる方へ繋いでいきたい。そんな想いから、私は「心会話(こころかいわ)」を始めました。
あなたが抱える「本当の自分」や「誰にも言えないこだわり」を、隣に座って一緒に驚いたり悩んだり、あなたが少しでも前に進めるように、これからどうしていきたいか、あなたのペースで一緒に見つけましょう。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
自分自身と向き合うのは、簡単そうに見えて意外と難しいですね。
人それぞれ正解もちがうし、やり方も誰かが教えてくれるわけでもない。
誰かに言われてするものでもありません。
私自身、自分と向き合うことはそう簡単ではありませんでした。
今も自分を振り返ると苦しくなることがありますが、「ひとりではない」ということが何より私の支えになっています。
あなたも一人でしんどいと感じたら
ここから一緒に、新しい一歩を踏み出してみませんか?
【活動への応援について】
もし、この活動に共感し「応援したい」と思ってくださる方がいらっしゃいましたら、<よくあるご質問>に応援やご支援の方法をまとめております。
皆さまからの温かいお言葉は、私がこの活動を続けていくための大きな励みになります。お時間のある時にご覧いただければ幸いです。
